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邪馬台国はどこにあったか |
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■地名は語る
さていよいよ、日本古代史最大の謎「邪馬台国はどこにあったか?」に取り組んでみましょう。
近畿圏の人は畿内説、九州の人は九州説を採りたがる傾向(私は九州生まれの関西育ちなので、その点こだわりなし)にあるようですが、私は宇佐神宮=卑弥呼の墓説を支持していますので、やはり九州説。と言っても同時に邪馬台国東遷説も支持しており、邪馬台国と大和朝廷は連続したものと考えていますので、あくまでも卑弥呼が治めていた時代は、という意味ですが。
最近では例の三角縁神獣鏡が大量出土したことから畿内説が有力になっているようですが、あれを魏志倭人伝の記述にある“銅鏡百枚”とするには枚数が多すぎ。何事も大袈裟な表現を好む中国人の気質からして、実際より少なく記述したとは考えにくいし、何より鏡なんていくらでも持ち運び可能。状況証拠より物的証拠を絶対視する、井沢元彦氏の言う“史料至上主義”の弊害が表れていると思います。
“邪馬台”を当時使われていた古代中国語の発音で読むと、“ヤマタイ”というより“ヤマトゥ”といった発音になるそうです。日本語では“やまと”であったことは疑いないでしょう。このことからも、大和朝廷と切り離して考える方がむしろ不自然だと思えるのです。また、同じく古代中国語の発音で読むと、好古都国や対蘇国はそれぞれ“ハカタ”“トス”になるとか。九州説を有力と考える理由は、魏志倭人伝では帯方郡から投馬国に至るまでの道程はこと細かく記載されており、その比定地も現在の九州にほぼ集中しているのに、そこから邪馬台国までの道程をいきなりはしょっているとは考えにくく、やはりその周辺にあったとする方が自然だと思われるからなのです。
問題は「水行十日・陸行一月」をどう解釈するかですが…。
■水行十日・陸行一月
邪馬台国の比定地が諸説入り乱れる結果を招いているのは、ひとえにこの日数をどう読むかで意見が分かれるためでありますが、九州説支持派の見解としてもっとも納得できるものはやはり、
・投馬国からではなく帯方郡からのトータルの所要日数
とする説でありましょうか。
他には、
・卑弥呼の居住地を容易に悟られないようにするため、案内人がわざと迂回路を取った
・魏の使者が自分の功績を高めるためにオーバーに報告した
などの説も面白いですね。
さらには、
・陸行一月は元々陸行一日であったのを書き写す際に間違った
なんてのもありますが、書き損じを考慮に入れるとなるとそれこそどこにだって持って来れてしまいますね(笑) |
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