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東日流外三郡誌真贋論争と長髄彦の謎 |
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■東日流外三郡誌・真贋論争
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をご存知でしょうか。『古事記』『日本書紀』などの正史とは異なる観点から東北地方の古代史が綴られた異端の歴史書。いわゆる“古史古伝”の中の一書であり、現在では偽書とされています。
十数年前になりますが、NHK教育テレビで否定派の安本美典教授(産能大)と肯定派の古田武彦教授(昭和薬科大)が、『東日流外三郡誌』の真贋を巡って討論する番組がありました。私は当時ほぼ肯定派だったので古田教授を応援しながら観てたのですが、安本教授の側にだけVTRが用意されてたり検証に費やす時間が多く割かれたりで、甚だアンフェアなつくりになっていました。その検証内容も紙質などに関する“科学的鑑定”に固執するばかりで、「もっと内容について議論せえよ!」と憤りを覚えたものです。けど内容を深く知るにつれ、私も「これはやっぱ怪しいか?」と思うようになったのですが…さすがにあの遮光器土偶そのまんまの“荒覇吐(アラハバキ)神”はあんまりだ(笑)。
ただ今でも『東日流外三郡誌』がまったくの偽書であり、否定派が主張するようにその内容すべてが発見者である和田喜八郎氏による創作とも思えないのです。おそらく元になった古伝承を記した書物は存在したものの、後世の人が写本する際に加筆修正が重ねられ、現在のような胡散臭い代物になってしまったのではないでしょうか。
東北=蝦夷地は9世紀初め、征夷大将軍・坂上田村麻呂が阿弖利為(アテルイ)との攻防の末ようやく平定した、大和朝廷と拮抗する勢力のあった“クニ”。彼らなりの視点で綴られた歴史書があったとしても、むしろ自然なことだと思えるのです。
■長髄彦の謎
私が『東日流外三郡誌』の内容にも一片の真実が残されていると考えるのは、『記・紀』における神武東征に抵抗した大和の豪族・長髄彦(ながすねひこ)の存在、その死の描写がどうも不審に思えるからなのです。
例えば出雲の国津神であった大国主命の場合、『記・紀』においては“国譲り”という形で、天孫族に対してあくまでも平和裡に支配地の譲渡が行われたと伝えていますが、一方で素戔嗚尊の子孫という地位を与えたり、以前は東大寺大仏殿を凌ぐ日本最大の建築物であったと云われる出雲大社(一説には大国主の陵墓そのものであるとも)を建立し、神道では異例の“四柏手”を拝礼作法とするなど、大国主の“魂鎮め”に躍起になっている様子が窺えます。これは“国譲り”が実際には『記・紀』の伝えている内容とは逆に、大国主の軍勢と争い流血の末に奪ったものであり、殺された大国主の祟りを怖れていた、と見るのが妥当でしょう。
それでは、同じく大和地方を支配していた王であり、神武東征の際に争った長髄彦の場合はどうでしょう?『記・紀』においては容赦なく“大逆賊”とのレッテルを貼り、その死を無情に描写するのみであります。なぜ長髄彦の祟りは怖れないのか?私はこの違いに着目して、長髄彦の場合もやはり事実は逆と見るべきではないか?と考えているのです。すなわち、神武に破れはしたものの命を奪われるまでには至らず、東北に落ち延びて後に“荒吐王国”“日高見国”として大和朝廷に対抗する国家の礎を造った…という『東日流外三郡誌』の記述こそ、真実の形に近かったのではないか、と。
長髄彦はその名の表わす通り脛の長い=非常に長身の人物であったとのことですが、青森県五所川原市にある於瀬洞(オセドウ)遺跡からは、身長2m近い、極めて位の高かったと思われる人物の遺骨が見つかっているそうです。 |
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